また、冒頭の記事では「先生や両親に叩かれたことは有難い思いしかない」の旨がありますが、叩いて良い訳はないですね。叩かれた体験を許容し良い記憶にしてしまうから、今の子供を叩くことも容認するのでしょうね。未だに大人の都合による正義の呪縛が解けていないならば、それほど重症体験だったのかもしれないし、自己肯定感から悪い記憶も肯定されるのかもしれない。
先の例に戻りますが、「言い訳をしないで謝ること」が良しとされているのは、学校だけでなく職場や家族、日本社会のあらゆるところであるしょう。これは、言い訳を聞きたくなかったり聞く度量がなかったりという、受け手の問題のように思えます。
言い訳と受け止めてコミュニケーションを拒否するのでなく、理由を落ち着いて聞き話し合ってみると、予想外に良い結果にいき着くかもしれないですよね。
とは言うものの、私も言い訳無しが良いという考えが長く刷り込まれているので、怒られることのない件でも、どこまで背景を説明するのが良いのかという思いが常に頭を巡っている気がします。長々説明するとイサギ良くないかな、と思ったりとか。
そのため、アメリカ人の会議に加わるといつも観察するのですが、アメリカ人は大抵すべて背景を説明しますね。もれなく。そして、聞き手は説明をきちんと聞いていたよという態度をとります (acknowledgeします)。
最近、大学院のラボ・ミーティングに参加していますが、ここでも皆自分のプロジェクトの細々した問題点を逐一ボスに説明して、ボスは軽んじることなく全てにフィードバックします。
やはり人種も文化的背景も様々なひとたちがいる国だな、説明しないと伝わらないのが前提な国なんだな、と感じます。